これは具体的な話です。産業社会化が進んで、商品が物から「差異」になった、というのは一昔前よく言われた話です。しかし、いまや「不安」が商品にされている。たとえば、子どもにGPSを付けて居場所をチェックできるサービスが人気があると言われる。それはそうなのでしょう。しかし、企業側が何もしないのに保護者が集まって運動が起きたわけではない。広告宣伝で不安をあおり、その結果として作られたサービスなんです。その本質は、記号や差異が商品だ、と言われていた80年代の消費社会と変わらない。それは「赤い服より青い服が格好いい」という言説が人々の欲望を作り出していくように、いまは、「GPSがないよりある方が安心」という言説が人々の欲望を作り出している。言説を流してニーズを作り出し、そのニーズに応える形でサービスを提供する。監視カメラも1台より2台の方が安心でしょう、2台より3台の方がいいと、どんどん増えていく。いまや安心とリスクは新しい商品を生み出す道具になっています。
したがって、僕は、単純に人々が監視社会がいいと言っているとは思わないのです。ウルリヒ・ベックが『危険社会』で指摘したように、僕たちは「リスク」をつねに意識しなければならない社会に生きている。それは言い換えれば、リスクが商品になる社会ということです。そのなかで監視が求められている。しかもその欲望はますます強化されている。その裏にあるのは、単純な資本の原理です。服のデザインより不安の方がおカネになるというだけのことです。昔は不安の商品化といえば保険業でしたが、いまはダイレクトな技術として不安をコントロールする製品やサービスができるようになった。そのためどんどん監視の密度が高くなっている。
米スタンフォード大学教授のローレンス・レッシグは『CODE』(翔泳社、2001)という本で規制を「法律」「規範」「市場」「アーキテクチャ」の4つに分けましたが、新聞は規範や法律に対しては政治面、市場は経済面、アーキテクチャにいたってはほとんど記事になることはありません。しかし、法律は社会を決める一つの要素にすぎない。たとえば、ウインドウズPCの導入が政治的問題だとは誰も思わない。しかしマイクロソフトのOSは90年代を通して全世界を制覇し、私企業でありながら大きな権力を持つにいたった。いまやマイクロソフトの動向が政治的効果を生むものであることは、だれもが認めると思います。同じように、今後の日本社会を誰が変えるのかというときに、決して永田町と霞ヶ関だけで決まっているわけではありません。
これまで「表現の自由」というと、イデオロギー対立の場面で、権力を持っている側が反対意見を封殺しようとする動きがあり、それに抵抗するのが「自由」だという狭いコンテクストで考えられてきました。しかし、権力側――という言い方ももはや無効になってきていますが――は、いまや、同じような効果をもたらすなら、いろいろな搦め手があることに気づいたのです。例えば著作権やプライバシー侵害で反対意見を封殺してもいい。いまや言論の管理はむしろそういう形になっています。
現在の社会秩序は、価値観は多様でいいが、その多様な価値観を維持するためのインフラはみんなで守りましょう、という一種の二層構造になっています。そのため、インフラを脅かす人々、例えばフリーライダー(利益を享受して対価を支払わない者)やテロリストは徹底的に排除する。「様々なリスク管理をしないといけないので、みなさんも個人情報を渡してください」というのがいまの社会です。価値観のレイヤー(層)では共産主義でも軍国主義でも勝手にどうぞと。つまり、それは遊びのレベル、ネタのレベルにしかならないのです。現在、真に重要なことは、価値観に対して中立的な、インフラの層における情報の流れをいったい誰が管理しているのかということです。知的財産権やプライバシー、セキュリティなどの問題は、そこにこそ深く関わってきます。
いままで政治は、価値観の対立と調整の場だと考えられてきました。しかし、いまもっとも重要な政治は、情報流通の管理だと思います。したがって、知的財産権やプライバシー、セキュリティなどの話題は、いま実は権力や資本の分け前にどうありつくかという激しい闘争の場になっているのです。それがわからないといまの権力は見えてきません。
ところが新聞では、経済面や社会面にしかこういう話題は載らない。政治面には政治家の動向しか書いてない(笑)。実は政治面に出てこない問題が世界を動かす政治的論点になっていることが多いんです。
『CODE』というと、人の振る舞いを規定する4つ――法、市場、規範、アーキテクチャを示したことで有名だけど、この本にとって、そのことはわりと前提みたいなもので、主題はもうちょっと踏み込んだところにある。
それは、この4つの中でも、法とアーキテクチャが特に重要だということ。
東海岸コードと西海岸コードと呼び変えていたりもする。
何故か。
一つには、可変であるということがある。
特にサイバー空間において。物理空間のアーキテクチャは、あんまり変わらないけれど、サイバー空間のアーキテクチャは簡単に書き換えてしまうことができる。
ネットは匿名で自由な空間だ、と言われている(た)けど、それは偶々そういうアーキテクチャだっただけで、コードを書き換えてしまえば、そうではないネットもありうる。
もう一つ。これは、特に法に関すること。
他の3つに対しての影響力がある。法は、直接人の振る舞いを規制することもあるけれど、市場や規範、アーキテクチャに訴えかけて、間接的に規制することも可能だ。
レッシグは、価値観を選ばなきゃいけないと再三主張する。
法やアーキテクチャというのは、自分たちで作り上げるものであって、勝手に出来るものではない。
もし自由なアーキテクチャが欲しいのであれば、自由なアーキテクチャは自分たちで作らなければならない。
様々なアーキテクチャがありうるのだから、何が守るべき価値観で何がそうでないかを選ばなければならない、と。
選択というのは既になされた、という考えがある。
ここでは、アメリカの憲法のことだ。守るべき価値観というのは、そこに書いてある。
ネットが生まれてから起こった様々な事件や対立も、過去に起こった事件や対立と結局は同じことだ、と。
もちろん、それは一理ある。ネット以前とネット以後の差は、種類の差ではなく、程度の差にすぎない。だが、その程度の差はかなり大きい。
つまり、憲法起草時には前提とされなかってテクノロジーの登場によって、当時は区別されなかったことを区別することが可能になった。憲法に書かれている価値観に、曖昧なところが出てくるようになった。
この曖昧さをはっきりと明確化させた上で、改めて選択を行わなければならない。
この本は、一面ではインターネットと法の本ではあるけれど、もう一面では、民主主義とは何かという本であり、民主主義を言祝ぐものである。
そういう意味で、後半はかなりレッシグの理想や理念といったものが語られるわけだが、訳者あとがきで山形浩生が「感動的」と言っていて、まさにそうだと思う。
レッシグは、反政府的だったり、あらゆる規制に反対したりするわけではない。
むしろ、政府や規制は必要だと考えている。
ただし、それは集合的な価値観というものを生み出すことにかかっている。
合理性や効率性といものも必要だ。
ただし、それもやはり何が合理的か、何が効率的か、という集合的な価値観があってこそだ。
現在利用者のフォロー数は平均43.9人、フォロワー数は平均36.0人。フォロー対象者の内訳は、「ミニブログで新たに出会った人」が51.9%、「企業」が34.4%、「政治家・タレント等の有名人」が8.1%、「既に付き合いがあった人」が5.5%。電通総研は、「ミニブログが新たなコミュニケーション相手と出会う場を提供している」と分析する。


